HONDA VFR750R(RC30) 誕生30周年記念トークショー in 代官山 蔦谷書店 |
2017年9月1日(金)
VFR750R=RC30の誕生秘話を聞きに行ってきました〜。 お洒落でセレブな街、代官山 てくてく5分ほど歩いて、蔦谷書店に到着! スケルトン30の誕生エピソード その傍らには、今夏限定販売されたRC30ヘルメットが。 トークショーの会場はこんな感じ。 で、バイカーズステーションの佐藤編集長と共に本多さん登場〜。 最初は、まったくレースに興味が無かったそうです。 そのタイミングでVFR750Rの開発LPLの話が本多さんのもとに 86RVFを設計した方から「とにかくこのRVFは奇跡のディメンションだ」と言われ、 販売予定価格は指示書の100万円以下を上回り営業サイドと大喧嘩。 その後、半年ほど仕事を貰えない(汗)時期があったと。。。 現在は、湘南工科大学で教鞭をとられています。 いまは、CADでパパッと線が引けちゃいますが、 最後にショーのアンケートを書いて、、と。 ツーショット写真を撮らせて頂きました(笑) 頂いたサイン本。バイカーズステーション創刊号と共に。 帰りは雨が降り、傘を持ってなかったので雨宿りしながら代官山駅へ。 ホワイトハウスに有ったノーマルのRC30 Fホイール
で、、、あんまり載せちゃうとヤバイので(笑)それなりに(爆)
ショーからの帰りは、本当に偶然ですが本多さんと駅まで二人っきりでしたw
[参加者]
二代目
初めて降りた代官山駅の感想は・・・「え?こんななの?」でした(笑)
30年前のモーターショーでひな壇に飾られていた、スケルトンRC30がお出迎え。
職人の手仕上げで造られた透明カウル、いまも綺麗でビックリ。
なんと!シリアルナンバー「000」!!本多さんのかな?
ホンダが絡んでませんので手作り感、満載です。
でも、それが良いんです。作り手の気持ちがダイレクトに聞けますから。
で、VFR750Fでレースをしていた荻原さんに部品の図面描いてよと頼まれ、
↓
いいよ、波が無いとき(サーファーなのです)描くよ、
↓
描いてくれた部品付けてレースするよ、来てよ
↓
自分が車体設計した750Fがパタパタ転ぶ姿を目の当たりに。。。
ユーザーに申し訳ない気持ちになったそうです。
ツアラーとして優秀なVFR750Fですが、レーサーに仕立てた場合、
そのディメンションでは無理があり、プライベータは苦労されてました。
(ワークスではフレーム造っちゃうので、関係ない・・)
Fが転ぶ姿を見てから、ポテンシャルが高く、ユーザーが安くレースが出来るバイクを造りたい。
エンジンの中の部品は最初からレース仕様で(改造の費用が掛からない)
とにかく時間がないから開発メンバー名指し指名(通常はその部署のマネージャーが決定)
長距離耐久テストも時間が無いから、鈴鹿を8時間×3日=24時間で壊れなければ承認得られるように変更。
その他、ハンドルの切れ角数値など、ホンダ社内規定や開発ルールを、
開発陣はことごとく無視?です。(汗:もちろん国内法規は通ってますよ)
実際当時最強だった86RVFを手本に。
開発指示書は「二人乗り」、RVFは「一人乗り」=なので、一人乗り決定(笑)
マフラーはなんで左側なんだ?=RVFが左側だから(笑)
ウィンカーはレースで使わないからホンダで一番小さい「タクト」用
カウルはレースでも使えるようにFRP製
φ100のヘッドライトもRC30の為に開発
アルミタンク開発ではCB1100Rで実績があり、資料を見返すと・・・
「漏れないこと」しか記述がなく(笑)、ぼーぜん(爆)
開発資料を本多さん達が作り、後にその資料が初代NSX開発陣に伝わった逸話も。
(アルミの事に関して、NSX開発陣が本多さんに話を聞きに来たそうです)
そして、RVFまんまのディメンションは公差がなく、浜松の一般製造ラインに乗せられないことが判明。
結果、手組みラインを作って、そこで製造することに。
開発中止寸前の事態となり、熱意を持って開発しているメンバーに変更は伝えられない。
そこで、本多さんは突っ走った。。。
当時技術研究所の社長だった川本さんを役員室に繋がるエレベーターの前で待ち伏せ。
川本さんは研究所の社長だから顔は知ってたし、(写真見ながら)この表情でしょ?
優しそうでしょ?話を聞いてもらえそうでしょ? だから「待ち伏せ」した(笑)そうです。
※工業の社長だった久米さんは知らなかったから待ち伏せしなかったみたいです(笑)。
で、エレベーターから降りてきた川本さんに、経緯を話しRC30を造らせて欲しいと直談判(汗)
川本さん「ホンダは1機種失敗したところで潰れる会社じゃない、君の好きなようにしなさい。」
「反対する人には、ぼくのところへ来るように言って。」
川本さんもスゲー!宗一郎さんに技術の事で喧嘩したことがある人だから、川本さんも熱い人です!
宗一郎さんが生きてた時代を一緒に過ごされた方々、、、やっぱりスゴイ!
景気が良かった時代でもあったけど、若くてがむしゃらに突っ走ったと。
また、反対の人も多かったけど応援してくれる人も多かったと話してくれました。
各担当者の方々が「しょーがねぇなぁ。なにかあればオレが責任をとる」と言ってくれたそうです。
「お前」が責任取れよ、じゃなく「オレが」ですよ。。。
この頃のホンダの方々、みなさん本当にすげぇです。
会社行っても、干されて仕事が無い。
↓
社内ライブラリーに行って一日中、技術書等を読んでいたそうです(汗)
個性が強く、芯のある人だなぁと(笑) ある意味「クセがスゴイ!」
CB1000SF原さんもそうですけど、やっぱり個性のある人が意図的に造ったバイクは面白い!
で、RC45の開発指示が本多さんの下に。
指示書=今のRVFからRC30みたいの造って。
今のRVFはRC30ベース、それじゃ造る意味がない、RC30を超える次世代のバイクを。。。
トラスフレーム、ラムエアをカウル前面に、気化器はツインインジェクターなど、
次世代へ向けたバイク開発方針をメンバーで決定。
30の時のように(汗)ケンケンガクガクあり、、、
曲げない本多さん、RC45の開発を外されHRCへ出向、レーサーの開発へ。
余談ですが、元ホンダのデザイナーの方に昔聞いた事があります。
最初のコンセプトから、開発が進むにつれて色々なヨコヤリが入り(コストなど含む)、
結果、訳の判んないバイクが出来上がると(笑)
コンセプトの軸をブレさせずに開発させるのがLPLで、強い信念が必要だと。
RC45の場合、投入時期が決まっていて、
後任の方は、既になにも出来ない状況だったらしいです。
外野が希望した仕様のまま、開発→市場投入。
結果、レースでの成績はともかく、市場では30ほどの熱狂はありませんでした。
で、本多さんはHRCではドゥーハンの乗ったNSR500、ビアッジの乗ったNSR250を開発。
レーサーは無いものねだりする、バイクに文句ばっかり言うらしいですが、
それを全部聞いてバイク作っても勝てるバイクにはならないと。
勝てるバイクは突出した一部分の性能があり、他の部分はライダーに頑張って!だそうです。
ドゥーハンが乗ったNSR500では、ブレーキングに強く安定するバイクを作ったそうです。
コーナー侵入でライバルを抜けるバイクですね。
その弊害が、コーナーリングの自由度が無い、です。
大学では、大型製図版=ドラフターをあえて使い、
線一本の大事さ、線を引いてる間も考えを巡らせる大事さを教えられてるそうです。
そのパパッとしている間に、人間が高速で考えなければならない、と。
線一本の大事さ、山中さんも原さんも同じ事を言ってましたねぇ。
雨宿りしてたら本多さんが現れ、、、ちょこっとだけ愛ゞ傘〜! キャ〜(笑)
駅までの短い時間でしたが、二人っきりのディープな話をして頂けました。
ええ、もちろん話の内容は書けません(笑)
製造年月日が書いてありました!昭和63年!(汗)
さぁて、5年後はCB1000SFの30周年!
その前に、今すぐでも(だって今年は25周年だもん)原さんの話も聞きたいなぁ〜。
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